酒株制度(さけかぶせいど)による統制と規制緩和
日本の酒造りの歴史は神代の時代からで、酒造りが商品生産として本格化したのは14世紀頃からです。
平安時代(794年~1185年)の中期には、造酒司(みきのつかさ)という酒に関する役所があり、朝廷のために酒を醸造するための体制が整えられていました。
平安時代末期、各地の寺院がその特権と広大な所領や建物を利用して酒造りを始めました。この酒を「僧坊酒」(そうぼうしゅ)といい、庶民の酒へと変わっていきます。
鎌倉時代(1185年1333年)、酒造業の発展がみられましたが、鎌倉幕府は酒の売買を禁じ(1252年発布の「沽酒(こくしゅ)の禁」、酒造業を抑制する政策をとりました。
室町時代に入り、室町幕府が商品生産としての酒造りを認めたことから、酒造業の全国的発展の基礎が固められることになりました。
いよいよ江戸時代に入ります。
この時代、武士階級の石高制という“米本位経済”と農業、商工業者の“貨幣経済“が並立して市場経済化が進展していきました。
日本酒造りの視点から総括すると、江戸時代前半期、上方では「下り酒」として江戸積酒造業が発展、その中心は伊丹、池田で、伊丹諸白(いたみもろはく)は「近代絶美なる酒」と称賛されていました。
中期以降、灘郷の時代へと業界リーダーが替わっていき、明治に東海道線の開通により台頭してくる伏見の酒の時代まで灘郷の時代が続いたことです。
それでは、江戸幕府が制定した免許制の一つ「酒株制度」による統制と規制緩和が繰り返された江戸幕藩体制下の酒造業界の変遷を追っていきましょう。
経済的な時代背景
慶長8年(1603年)以来、約260年続いたこの時代、全てが米の生産力で表示される石高制下、米の生産量が豊作、凶作といった自然環境制約により、米の配分が常に江戸幕府の重要な経済課題となっていました。
一方、農民の農産物品や商工業者によって作られた物品やサービスは貨幣によって市場取引されていました。とりわけ大消費地市江戸の誕生は市場経済化に拍車をかけ、酒、木綿などが商品化され、酒造業界、製糸、織物業界は急速に発展していきました。
日本酒の場合、この江戸市場に商品を供給したのが「天下の台所」と呼ばれていた大坂で、江戸が買い手、大坂が売り手の地理的分業体制化によって市場経済化は一層進展していきました。
更に、市場経済化を加速させた要因の一つとして、水運網の整備と廻船組織の確立すなわちインフラ整備が進んだことが挙げられます。寛文年間(1661年~1673年)の東廻り廻船組織の設立が、従来の北前線、西廻り廻船に加わり、日本列島を一周する定期商業航路が完成したのです。
(つづく)