「酒株制度」による統制と規制緩和の繰り返し
大消費地江戸が誕生したことにより、生産と消費が分離された社会への転換が始まりました。日本酒については、上方(かみがた)、特に摂泉十二郷((せっせんじゅうにごう)大坂・伝法・北在・池田・伊丹・尼崎・西宮・今津・上灘・下灘・兵庫・泉州(堺))で造られる酒は品質も良く、「下り酒」と称され江戸へ運ばれて消費された典型的な商品です。
一方、酒造りは主食である米を原料に造られることから、米価安定面で幕府は厳重な統制を実施しました。具体的には、それぞれの酒蔵が規模や生産能力に見合った原料米を、その年々の米の収穫量や作柄と比例して公平に仕入れることができるように、「酒株」を発行し、酒造業を今でいうところの免許制にしたのです。
明暦3年(1657年)、第4代将軍家綱の時代、幕府は初めて「酒株」を発行し、これを持っていない者には酒造りを禁ずるとともに、それぞれ酒造者が酒造りで消費できる米の量(株高かぶだか)を超えて造ることは許されませんでした。
その後も、実態に合わせた株高に是正する必要に迫られ実施されたのが「株改め」であり、寛文6年(1666年)、延宝8年(1680年)、元禄10年(1697年)と3次に亘り行なわれました。
江戸時代前期、酒造業は急速に成長、人口爆発ともいえる需要の拡大に米の供給が追い付かず米価安定面から減醸政策を取らざるを得なかったのでした。
時代は江戸時代中期、第8代将軍吉宗の時代には一転、減醸政策から醸造奨励策、今でいう規制緩和へ転換、その決定打が宝暦4年(1754年)、9代将軍家重の時代に「勝手造り令」が発布されました。
この「勝手造り令」発布は自由業を認めることであり、結果、酒造業者間での競争促進を引き起こしました。
江戸時代後期の1770年代はじめ「天明の飢饉」が始まり米価の高騰が起こったため、天明8年(1787年)、第11代将軍家斉の時代、第4次の「株改め」が実施されるに至り、再び減醸政策に入っていきました。
更に、寛政4年(1789年)、江戸積み酒造地を「下り酒十一ヶ国制」(摂津・和泉・山城・河内・伊勢・尾張・三河・美濃・紀伊・播磨・丹波)と称し限定しました。
その後、文化年間(1804年~1817年)には全国的に米の豊作が続いたことから、文化3年(1806年)、再び「勝手造り令」が発布、酒造業者間での更なる競争が激化していき幕末の大政奉還を迎えることとなりました。
(つづく)