室町時代とは、1336年、南北朝対立のさなかに足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都の室町に幕府を開き、15代将軍足利義明(あしかがよしあき)が1573年に織田信長によって京都から追放されるまでの237年間の室町幕府によって統治されていた時代を指します。

「茶の湯」、「連歌」、「水墨画」、「能楽・狂言」さらには「書院造り」、「庭園」など今日、日本文化の原型と考えられているものがこの200年余の時代に確立されました。
また、この時代は都市の発達により、農民とは別に都市部に住む庶民が文化の担い手になってくる時代になり、食文化では,味噌、醤油、豆腐など日本料理の基本要素が出揃いました。

酒文化史的に言えば、清酒(今日の日本酒)の原型であった「諸白(もろはく)」酒が庶民の間で賞味され始めたのは、ちょうどこの頃で、造り酒屋が爆発的に増えた時代でした。洛中だけで、北野神社の「酒屋名簿」に記載された造り酒屋342軒の多さには驚かされます(現在、京都市内の中心部、上京、中京、下京区では1軒のみ)。その中でも、「柳の酒」が都の公家・武士・寺社などの支配階級の間で、贈答品として多用され、14世紀半ばには、大和僧坊の酒、天野酒と並んで、天下の銘酒と謡われた酒であります。

それでは、今回の余話のメインテーマ「柳の酒」についてコメントしていきます。

“松の酒屋や梅壺の柳の酒こそすぐれたれ”と狂歌に詠まれた「柳の酒」の醸造元は、下京の五条坊門西洞院(現在の仏光寺通西洞院南西)、代々、当主が中興四郎衛門(なかおきしろうえもん)という名の酒造家であります。柳という名の由来は、店の前に大きな柳の木があったことからとも柳の樽を使用したからだともいわれていますが、確証がないので不詳です。
また“六ツ星紋(むつぼしもん)”の付いた酒樽を使用し、古酒で1.7倍、新酒で1.5倍と、他のものよりも一段と高値で販売されていました。この“六ツ星紋”が酒に銘柄のついた最初のものだといわれています。
室町時代後期に全盛を迎え、戦国時代を経て、江戸時代初期には衰退していきましたが、全盛期には室町幕府が酒造業者全体に賦課する酒屋土倉役(さかやどそうやく)=酒税)の10%以上(年額720貫、今日では約1億円前後)を柳酒屋1軒で負担するほどの富商でした。

以上