古代、稲作とともに中国や朝鮮半島から我が国に伝えられた酒造りは、五穀豊穣を感謝し祈念する神社の神事の中で重要な先駆け儀式として始まりました。爾来、独事の改良を加え、室町時代になると、現在の醸造方法の基本が形成され、それまでに多かった「どぶろく」のような「濁り酒」ではなく、「すみざけ」といわれる濁りのない酒が造られました。
豊臣政権末期の1600年(慶長5年)、伊丹の鴻池善右衛門の開発した、麹米・蒸米・水を3回に分ける「三段仕込み」により大量生産・大量流通の革新がもたされ、日本酒の産業化が進みました。
江戸時代に入り、日本酒が本格的に一般大衆に根付いていきます。
江戸時代初期の酒造りは、四季を通じて造られる「四季醸造」が主流でしたが、中期頃より、冬季のみに造られる「寒造り」にシフトしていきます。
その理由は、米の生産力で表示される石高制下、江戸幕府の米の豊作、凶作に対応した米の配分により、酒造りに規制と緩和が繰り返され酒造りの時期が次第に変化していきました。
その結果、それぞれの酒蔵では冬季に大量の働き手が必要になり、労働力の需要と供給の経済論理より、供給サイドとして、冬季が閑散期である農・山・漁村から労働力を担う出稼ぎが始まりました。今で言うこの季節労働者は、地域ごとに集団を作って酒蔵へ出向きました。この集団が「杜氏」の起源とされています。
杜氏集団の組織は、酒造りの現場の総括責任者である杜氏(1人)と、その下に、酛屋(もとや)、麹屋(こうじや)、頭(かしら)の「上三役」、その下に各係がおり、平均20名前後のチームを結成しています。
杜氏集団は日本海沿岸地方を中心に存在し、中でも、全国最多の杜氏を抱える「南部杜氏」(岩手県)や「越後杜氏」(新潟県)、「能登杜氏」(石川県)、「丹波杜氏」(兵庫県)は日本四大杜氏として知られている。
華道、茶道等の「流派」と同様に杜氏集団による酒造りにも流派があり、独自の技術をもって日本酒が造られ今日に至っています。
この酒造り技能集団の出稼ぎ労働によって成り立ってきた日本酒文化は社会全体の産業構造の変化とそれに伴う農業人口の減少、農村の変化、杜氏の高齢化、後継者不足等々、近年大きなターニングポイントを迎えています。
(J-STAGE 「杜氏風土記」、「酒風土記」参照)
「追記」
杜氏の名の由来
①昔、中国で初めて酒をつくつた杜康(とこう)の名をとったとする説
②奈良・平安時代、造酒司(さけのつかさ)が酒を造るのに用いた壺を大刀自(おおとじ)、小刀自(ことじ)と呼び、後の人が酒を造る人をも刀自と呼んだとする説
③寺社で酒つくりが行われる以前、酒造りは家庭を取りしきる主婦(刀自)の仕事であり、刀自が転じたものであるとの説
(世界大百科事典 第2版 参照)