清酒発祥の地は2ヶ所

古代の酒造りの原料は果実や雑穀もありましたが、日本列島に稲作が定着するにつれ、米以外の酒は急速になくなりました。当然、濾過や精製技術は無く、できた酒は「どぶろく」と推察されます。
平安時代、宮中の年中儀式や制度を詳しく記録した『延喜式』に、「黒貴(くろき)、白貴(しろき)をそなえ…」と記されており、その頃までは、酒は一般に、濾されず飲まれていたようです。

清酒発祥の地ー1ー 「僧坊酒」(そうぼうしゅ)

「どぶろく」、「にごりざけ」から「すみざけ」ともいわれる現在のような「清酒」が造られるようなるのは、酒造りが朝廷から寺院に移る室町時代です。
平安時代初期までは、朝廷が造酒司(みきのつかさ)などの部署を持ち、朝廷内部で酒造を行っていたが、貴族社会の衰退により、技術、人材等が外部流出、現代の大学のような存在であった各地の大寺院が受け皿となり、寺院で造る酒のことを「僧坊酒」と呼ばれました。
数ある僧坊酒の中で、奈良市東南に大伽藍を誇る菩提山正暦寺(ぼだいせんしょうりゃくじ)で醸造した清酒『菩提泉』(ぼだいせん)が長らく名声を保ち、その他の寺院では、河内長野市金剛寺の『天野酒』、河内の『観心寺酒』、近江の『百済寺酒』などが有名でした。

常陸の国の「佐竹文書」に「御酒之日記」と記された酒造りの古文書があり、『菩提泉』などの造り方が書かれています。
正米、蒸し米、麹の配合の割合、乳酸菌入りの「上の澄みたる水」の造り方と投入の時期、寝かせる日数が詳細に記され、正暦寺で醸造した酒『菩提泉』では、酒母に蒸し米などを3回に分け加える「三段仕込み」や、腐敗を防ぐ「火入れ」など、現代の酒造技術の骨格を作りあげています。
この正暦寺には、清酒製造研究会が2000年10月に建立した「日本清酒発祥之地」の石碑が立っています。

清酒発祥の地ー2ー 「双白澄酒」(もろはくすみざけ)

時代は移り江戸時代、徳川幕府の鎖国政策により独自の日本文化が花開き、酒造技術の進歩に併せて、酒造りの中心地が南都(奈良)から伊丹、さらに灘へと移っていきました。この時代に、「うすにごり」から今日のような透明な清酒に変わったのです。

伊丹市鴻池にある児童公園に1784年(天明4年、第10代将軍徳川家治)に建立された石碑「鴻池稲荷祠碑」(こうのいけいなりしひ)に、鴻池の始祖で、戦国武将・山中鹿之助の長男、幸元(ゆきもと)が豊臣政権末期の1600年(慶長5年)に「双白澄酒」=「清酒」を造ることに成功した旨の記述があります。

その後、伊丹の“木炭でろ過してすっきりとした味と香り”の清酒は江戸でも評判となり、江戸幕府が官用酒とした。
1779年(安永8年、第10代将軍徳川家治)に発刊された『日本山海名産図絵』(にほんさんかいめいさんずえ)にも、“伊丹は日本上酒の始めとも言うべし”と記載されている。
以上より、2000年(平成12年)、地元住民がこの児童公園に「清酒発祥の地」の記念碑を建立している。