「酒株制度」による統制と規制緩和
上方の酒造業界の変遷
幕藩体制中期以降、酒株制度による統制と規制緩和が繰り返される過程で、日本の酒造業界の中核を形成していた上方の酒造業界はどのように変遷していったのでしょうか。
宝暦4年(1754年)の「勝手造り令」発布を契機に、農業生産力の高まりにより農産物品を栽培・販売し貨幣を得る機会が増大してきた灘郷の酒造業者が台頭してきました。
17世紀末、元禄10年(1697年)の記録によれば、この頃すでに大消費地江戸に回漕される「下り酒」の入津樽(にゅうしんだる)は64万樽という数量になっていましたが、灘郷の酒造地は未だ頭角を現していませんでした。当時の「下り酒」生産の中心は伊丹、池田が最盛期を誇っていました。
ところが、18世紀初め、享保年間ごろから海上輸送に便利な地理的条件を備える
灘郷が江戸積生産地として台頭、その後、灘郷では六甲山系の傾斜を利用した“足踏み精米”から“水車による精米”への技術革新と宮水の発見により飛躍的な発展を遂げることになり、伊丹から灘郷の時代へと業界リーダーが替わっていきました。
天明6年(1786年)の江戸入津樽数は78万樽、そのうち摂泉十二郷で約64万樽と80%以上を占め、なかでも灘郷が約36万樽、46%と確固たる地位を築いていました。
明治に入り、とりわけ明治22年、東海道線が開通し、東京への酒の搬送がたった1日で可能になり販路を拡大していった伏見の酒の時代まで灘郷の時代が長く続くことになりました。
(おわり)